昭和44年11月06日 朝の御理解
御理解 第31節
「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
どの様な事どの様な場合でも、お礼を言う心持ちになれ。お礼を言うその心持ちになるという事がそういう心を持ち続ける事が、良い信心の基礎基本になるんだと思います。礼を言う心持ちところが、私共礼を言う心持ちと中々自分の思う様になったり、都合の良い時はお礼心が出ますけれども、中々却って都合良く行っておる時なんか、そのお礼心が段々薄くなってさえいくんですよね。
これでは信心は出来ません。願うたことが、どのような結果に、形になって現れても、礼を言う心持ち。木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちと。心持ちがある。そこでそういうその心持ちというものは、どのように信心をさせて頂いたら頂けるかと。それを私、次のみ教えを頂きましたら、「四季の変わりは人の力に及ばぬ事ぞ」と「物事時節に任せよ」と。
物事この時節に任せると。どんな場合であっても神様にお任せてしきっておると。そのお任せしきった生活から、私はどのようなことにでもお礼が言えれる心持ちが生まれてくるのじゃないかとこう思いますね。「四季の変わりは人の力に及ばぬことぞ。物事時節に任せよ」御神訓の中にありますね。まぁこれをまぁ(いいかた)な表現で申しますと。日々がお取り次ぎを頂いての生き方。日々がお取り次ぎを頂いての生活。
「高橋博」先生の有名な、あのお言葉の中にありますように、お取り次ぎを頂いて起きて来たことは、良い事でも悪い事でもみな良いと。お取り次ぎを頂かずして起きて来た事は、ね、良い事でも悪い事でもみな悪いとこういうておられる。ですから是も随分とお互いの信心が高度な所になって、お取り次ぎの働きというものが、信じられる所まで高められていかなければ、中々この心持ちどんな場合でもお礼を言う心持ち。
まぁ木の切り株といやまぁいうなら、世の中では場合によっては邪魔になるものでしょうね。その切り株ですからその木の切り株の様な、その上にでもですね、それに例えばちょっと腰を降ろさせて貰うたら礼を言う心持ち。どの様な嫌な邪魔に成る様な事柄の中にあっても、その事が私共の生活に密接な関係を持っておるならばですね、又事実持っておるのでござますから、その事に対してやはりお礼を言わなければならん。
自分が損になったり、馬鹿らしい立場に立ったり致しましても、その事に対してお礼を言う心持ち。なるほどよくよく考えますと、本当に人間の知恵やら力ではどうにも出来ないものだと、いわゆる「四季の変わりは人の力に及ばんものぞ」と。「物事時節に任せよ」と仰るように、金光様の信心頂く者は、この任せるという心。その任せるという心が段々強うなってまいりますから、お任せしておってのことなのですから、その事に対して神様のご都合に違いはないというように、それを頂けれるわけであり。
又日々お取り次ぎを頂いてのことでございますから、良いこと悪いこと、みな良いという確信が出来てくるところから、礼を言う心持ちというのが生まれてくるんじゃないだろうかと思います。ですから、そこんところをです、任せないでの生活。ただ自分の都合の良い時だけの任せる。又はお取り次ぎを頂かないでの生活。そこからはです、私共は礼をいう心持ちは生まれてこないと思います。
いやむしろ、礼を言わなければならない、いわば調子が良い時ですら、礼をいうどころか、自分のやり方が良いからと言った様な、慢心が出て来る様な結果になる。礼を言う心持ちなんかもう微塵も無い。そこに忘恩の生活があるのでございます。(まんざらふえる)ところではなくて、その、もう忘却してしまう。忘れてしまうといった生活。そこからは、信心、良い信心は生まれてまいりませんですね。
どう言う様な信心をさせて頂いたら、どの様な場合でも礼を言う心持ちが生まれてくるであろうかという所に焦点を起きますと、只今申しました様にお取り次ぎを頂いての日々。任せきっての生活態度。そこから私はどういう心持ちが生まれてくると。昨日「障子一重がままならぬ人の身ぞ」というみ教えを、あの様な風に頂きましたですね。その後にあの安東さんのお父さんがここでお取り次ぎを願われて、先日から大祭の後に御直会に頂いた、あのパンフレットですね、須田幸太郎先生の書かれたものでした。
それが天地の法則にしたがっていかなければ、人間の幸せは絶対にあり得ないという事を、まぁ科学者らしい、いわゆる筆致で書いておられるものでございました。けれども確かにそうなんだけれどもですね、私共の人間の、まぁ力というか科学的にいうなら、その天地の法則というものを検討するとですね、まだまだ分らない法則があるという事を書いておられます。
そう言う様な例えば、事柄と今日の御理解ですね、今日というか昨日ですね、「障子一重がままならん人の身」というその関わり合いというのは、どのような風に頂いたよいだろうかという、まぁ安東さんのご質問に対して、私もとっさにちょっとどういう風にご返事して良いか分らなかった。けどもその事を聞かせてもらいながら、はあこれは素晴らし質問だなぁとこう思ったんです。
そして昨日私がご返事を申しました事は、確かに天地の法則にしたがわなければ幸せにはなれない。ここだけは一つお互いが絶対に分らなければならない事。ところが、その、そこんところを、今日の御理解で頂きますとですたいね、礼を言う、どのような場合でも礼を言うような心持ちというのですね、どのような場合でもお礼を言うような心持ちというのは、その天地の法則に従わなければというが。
そのもう一つ向こうにある、いわば超法則とでも申しましょうかね。どのような場合でも礼を言う心持ちというのはやはりこれはその、須田先生が、これから先、まだ向こうに、ある法則、それは科学で、科学的にやはり究明していってもまだ分らないんだと言うておられる世界じゃないかと思いますね、私は。昨日私はそこんところを、例えば教祖の神様は、上納米をおさめられますのにね、いわゆる税金ですよね、昔の。
その米をおさめられるのに、例えば十俵おさめるが良いのにです、今年は良く出来たからというて、一俵余計、そのおさめておられますですね。これなんかは、例えばですよ、そのもうおさめるという事だけで、いわばもう法則にかなっているわけです。それをもう一つね、誰もそりゃ知らんだろうけれども、自分が取り上げて見たところが、何時もよりも一俵余計に取る、多くとれておるんだ。
沢山取れておるから、矢張り一俵余分におさめるのが、本当だと言う様な考え方なんです。ですから、例えばなら役所の方としてもですね、それをまぁ受けとられたら、それに対して、今度は特別な例えば、まぁ感謝状とでも申しましょうかね。まぁ人間の世界に警察、警察法とか、税法とかというのがあります。その例えば税法に触れないでの生き方であれば、問題ない。
警察法に触れないでの、生き方であれば罰を受けることは決してない。だからその、法則に従う生き方というのはそういう生き方なんだ。法則を知り、神様の心を知り、その神様の心にそむかない生活をして行くという事。ところが教祖の場合なんかそむかないのではなくてから、もう一つ向こうの、この働きをなさっておられる。いうなら、例えばその、まぁ何ちいうですかね。
人民救助なんかをいたしますと、その警察から感謝状と金一封と言った様なものが頂けるようにですね。そこの所の働きをなさっておられる。何時もはそういう心の状態におありになられる。そこん所は例えば法則のもうひとつ向こうにある法則、超法則と言った様に、須田先生がまだ分からない、というておられるのは、その辺の事ではなかろうかというて、まぁ昨日安東さんにご返事させて頂きながら、段々そうだ。
そうだとその事に確信を持てれるような感じが昨日いたしました。そこでなら今日の例えばところを頂き、31節を頂きましてです、全てのことに例えば礼を言う心持ちなんですね。いや全てのことだけではない、その全てのことですけれどやはり、その、自分が都合の悪い邪魔になるようなもの。いわば自分には都合の悪い困った事柄に対してでも、お礼を言う心持ち。
これはやはりそのやはり法則以上の法則という事になるのじゃないでしょうか。不足を言わんで済むというだけでも、これは天地の法則にかなうからおかげになるですね。不足を言わないというだけでも。ところが不足を言わないどころかそれに対してお礼を言うておられます。だから、ここんにきが、私は超法則だと思いますね。超法則というのはどういう事かというと、人間が幸せになるということだけじゃなくて、それこそ夢にも思わなかったようなおかげの世界が顕現されてくるということですよ。
いわゆる御神徳を受けていく世界。御神徳というのは、そこだろうとこう思うです、そういう生き方から生まれて来るんだと。普通でいうなら不足を言うところ。だからその不足をいうことによって、幸せになれない基をつくっていくわけです。ところが段々おかげを頂いて、そういう風に不足をいわんで済む信心が生まれてくるです。これは幸せになれれる法則にぴったり合うことになるです。
どのような場合でも不足を言わん。それが法則に従った、法則を知って、法則に従って初めて不足をいわんで済むことが出来るとようになってきた。ところが教祖の場合は、その不足を言わなければならないようなところを、不足を言わんのではなくて、お礼を言う心持ちが生まれておられる。これ、その何処を見ても、何時の場合でも教祖の神様はそこんところはおありになるようですね。
神様がね今日お弁当を作って田主丸の方へ向かって歩けとこう。あちらの方へ今日出て見れとこう仰る言われる通りにお弁当を持って、その確かにあれはお金を拾わすと仰ったですね神様は。だから恐らくやっぱり下の方ばっかり見てずっと、おいでられたのじゃないでしょうかね。神様が拾わせて下さると仰るから、ずっとそれをひらわにゃこて相済まんというので、下ばっかりを見て歩かんかんじゃないだろうかと思います。
丁度もうお昼の時分になったけれども、それこそ金一銭札一文落ちてはいなかったというのである。そこでもうお昼になりましたがと。神様にお伺いをされるとそこで持ってきた弁当を開けとこう仰った。そして是からまた後戻りをして帰れとこう仰る。お弁当を頂いてお家に帰られて御神前に額ずかれて、今日おかげを頂きましたというてお礼をもうされますと、神様から語りかけたように今日はいかほど拾うたかとこう仰った。
どれだけ拾うたかと。神様が仰る様にお金は拾わなかった。けれども今日はねそれ以上のものをひらわせて頂きました。何を拾うたかと日頃は御結界に努めさせて頂きますので、何とはなしに血の巡りが悪うなります。今日久し振りで外へ出らせて頂いて血の巡りがよくなりましたというならば、健康を拾わせて頂いたとお礼を申されたちゅう事。もうその方ばかりはもうその試し様がないとまで神様がその時に仰っておられます。
もう是から試さんぞと。是から本当の事を教えてやると、その神伝えがあっております。神様あなたが今日は拾わせて下さると仰るけん、私は今日下ばっかり見ていきましたばってん、一銭もおちてはおりませんでしたよと、私達なら言う所じゃないでしょうかね。所が、もうどこおしてもそのお礼を言う対象になっておられるという事です。所謂「木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心持ち」というものが生まれておられた。そこで私共はですね、
そういう教祖様のその、まぁ天成的なものですかね。生まれつきの中にそげなもの備わっておられたとしか思われないような、素晴らしさですけれどもです、それをなら凡夫私共が、そういうおかげを頂かせて頂くためにはです、今日「四季の変わりは人の力に及ばんことぞ」と。「物事時節に任せよ」と言う様な所をまず体得して、いわゆる「四季の変わりを人の力に及ばぬ事ぞ」という事をまず分らにゃいかん。
そしてそこに「物事時節に任せよ」と仰る、物事全ての事がです、時節到来を待たせてもらうという、いわゆる任せきった生活が出来る。任せきっておる中に生まれてくる様々な事柄ですから、神様のご都合に違いはないと分るわけなんです。それをもう少しなら具体的にいうと、高橋先生のね、お取り次ぎを頂いて起きて来たことは良いこと悪い事、みな良いと確信出来れる所まで信心を進めていかなければならん。
お取り次ぎを頂かずして起きて来た事は、例えそれは良い事であっても悪い事だと。私共がそれを信ずる所からです、この礼を言う心持ちが生まれてくる。今日昨日から安東さんと私との問答の中から須田先生が、須田博士がですね、ここに講説にした天地の法則というものをです、まぁこれだけの事じゃないて、是から向こうにまだ沢山の法則があるんだと。けれども現在の学問ではそれが分らないと言うておられることを。
例えば私共がね、ただ、警察法なら警察法にしたごうておると、というだけでもばっさり、罰せられない、そこに、平穏な生活があるわけです。私共が天地の法則にです、従うていければです、従うた生活をしよればです、やっぱし幸せになる。困ったことなんか起こってくる筈はないというところになってくるわけです。ところが私共の場合は、その天地の法則を何時も無視したり、破ったりして行くところに巡りを作る事にまでなってくるんじゃないですか。
それをもう一つ向こうの方ですね。いわゆる天地の法則のもう一つ、須田博士が言うておられるのはそこんにきじゃなかろうかと思われるところですね。 警察の法に従うた生活だけではなくて、その警察の働きにです、こちらが一段尽力をする。お手伝いをする。そこに感謝状とか金一封とかといったような特別のものを受けていく。そこんところを私は神徳だとこう、いう風に、こう申しました。
だから金光大神は、結局神徳を受けるための信心を身をもって現しておられるという事がいえます。それを例えば昨日は、私は御用という風に申しました。まぁ完璧ということじゃないですけれども、昨日壮年部会で、色々お話をしました中にです、石井清さんの例をとって、昨日、清さんは見えておられました。この人なんかは、ある意味合いで天地の法則をぴたっとつかんでるわけですよ。
だから腹立てちゃ馬鹿らしかという事もちゃんと知っとる。どんな場合でも腹を立てないです。だから。人が腹立てんならんようなところでもニコニコ笑うとる。それでおかげ頂く事を確信しとるもんですから、腹立てちゃばからしかという事を知ってる、天地の法則を弁えておられる。だからおかげを受けるんです。悔んじゃ馬鹿らしか。不足を言うちゃ馬鹿らしか。腹どん立ててはいよいよ馬鹿らしい事を清さんはしっておるわけです、だから天地の法則に従うた生き方をしよるから。
そこに幸せな生活が約束されておるわけですよね。だから、その「清?」さんがです、今度は本当に信心になってです、昨日私そこんところ御用という言葉を持って申しましたですね。お互いが御用させて頂いておるのは、おかげを頂かんならんけん、御用しよる。罪ほろぼし的に御用をしよる。もうこれは御用じゃないちいうこと、本当は。御用とは御【おん】、用【よう】と書いてあるのですから。
罪滅ぼしでもなからなければ、おかげを受けなければならんからという条件もない。いわゆる御用なんです。本当のね、神様の手にもならしてもらう、足にもならしてもらおうといったような、神様の助かられる事のための、いわば御用なんです、これが。それが本当の御用。神の用を足せばとこう仰る、神の用をはたさせてもらう。そこには「氏子の用は神がたしてやる」というと仰る世界が開けてくるんだと。
それから、清さんのような生き方の人がです、本当にここに開眼してです、熱心にお参りが出来るようになり、教会の御用でも本当にさせてもらわなければおられんという生き方になられたら、いよいよ御神徳を受けるだろうというて、話したことでした。ね、そこんところを須田博士は、まだ私共に分らない法則と。分らないというておられるのは、その辺のことだと。という風にもうしましたね。
どのような場合でも礼を言う心持ち。だからその不平を言うちゃ馬鹿らしか不足というちゃ馬鹿らしか、腹を立てちゃ馬鹿らしか。これは天地の法則にそむくから是が幸せになれんという事を把握しておるから。清さんはそこん所を誰よりもあかぬけして、まぁニコニコ受けていくわけなです。足を言わずに受けていく。だからその不足を言わずに受けていくだけじゃなくて、その事に対してお礼を言うていく生き方。
そこんところをいわば木の切り株、木の切り株のように、邪魔のような物に、であってもですそれに関係をつくったらです、嫌な問題腹の立つ様な、問題と関わり合いを作ったらです、それにいわば腰をかけたことになるわけです。木の切り株に。だからその事に対して礼を言う心持ちになれよとこう仰る。分るでしょう。そこんにき。いうなればあの人にいじめられた。
それでも腹を立てずに辛抱しとるというだけでも、法則にかなうのだけれども、あの人にいじめられたおかげで、私はこういう事を分り得たと、例えばお礼を言うていくという生き方なんです。そこには、教祖の神様の、独壇場というものです、他に宗旨宗派では説き得ていないところです。普通のまぁ宗旨宗派がです、天地の法則に従うていく、生き方を教えておるとするならです。
教祖の神様はもう一つ向こうの法則を今もって用意しておられて、そこに生神金光大神というような大変な御神徳にお進みになられたんだと。泣くまいと思うても泣かなければおられない。嬉しいやら悲しいやら、どうしてこのようなことが起きてきたであろうかと、ありがた涙にくれておられる、そういう世界がそこから開けてくる。他の宗旨の宗祖とか教祖とかという人はですね。
こういうありがた涙にかきくれられるというところがないんですよ。実際をいうたら。何時も悩みに悩み抜いておられるです。苦難にあえいでおられるです。お釈迦様だって、キリストだって。例えば親鸞上人様、日本のね。宗の中のようするに、あの、真宗仏教ですたいね。その宗祖たるところの、親鸞なんかでもです、もう極めて極めて極め抜いていっておられるようにあってもです。
何か何時も求めて求めて求め抜いて与えられないもどかしさと言った様なものを何時も感じておられるです。今まで自分の言うて来たことはみんな空言である。世の中のこと、真あること一つもない、と言う様な表現をしておられます。だからこの道を精進して行く者の、その姿勢、態度というものは素晴らしかってもですね、そういう生神金光大神の境地といったような境地には、進んでおられないですよ。
生神金光大神の境地というのはですね、丸い手まりに喜びという字を書いてくるくる転がすようなもんだといわれております。どちらへ転がしても有り難いものばっかりしか出てこんちゅう。だからもうこれはもう、大宗教家という、もう一つ向こうの超大宗教家です、教祖の神様は、私はそう思うですね。ですから、現代の科学で、例えばそういうなところが分るわずはないところをです。
合楽ではまぁ昨日から今日にかけてですね、何時も話しはしておるけども、私はそうと分らなかったんです。けどもははあ、ここが教祖の独壇場だなぁという事を思わせてもらうんです。礼を言う、邪魔になるような事柄に対してでも、礼を言う心持ちを忘れなよとこう仰る。ね、不足をいわんというだけでも大したことなのに、その不足をいわなければならんことにお礼を言うておられると。普通から言うたら馬鹿らしい話し。
十俵おさめりゃそれでそれで十分完納した事になるのにです、いえそういう訳にはまいりません、私の家は是だけ余分に出来ましたからおさめますというて、おさめてござる考えようじゃ馬鹿な様な。ね、そこからしかし教祖の信心というか、生神金光大神が身をもって行じられて打ち立てられた所の、金光大神の道というのはあるんだと。それをそこん所に焦点を置いて、今日はその31節を頂きましたですね。
「木の切り株に腰を降ろしても、立つ時には礼をいう心持ちになれよ」その心持ちを私共は目指しての信心。そこにはいかにね、四季の変わりが人間の知恵力で出来る事ではない。四季の変わりという事はです全ての事がです、人間の知恵力で出来る事じゃないと、昨日の御理解でいうならば、我無力を悟らせてもらおうたら、任せるより他に術がないのだと。この様に命がけで任せておる事であるから。
起きてくる全ての事が神乍らな事に違いはない。神様のご都合に違いはないと思われるからお礼が言える。そこの精進が必要になってくると。同時に今具体的に申します、所謂御取り次ぎを頂いての事であるから、神様のご都合に違いはないと言う事にも言えれる。だからそこん所の確信をですね、愈々高めていく所からです、全ての事に礼を言う心持ちがすなわるというか、身に付いてくるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。